「考えないヒト」を読んで、痛いとこつつかれたの巻
思うところがたくさんあった本だったので
考えないヒト - ケータイ依存で退化した日本人 (中公新書 (1805))
- 作者: 正高信男
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2005/07/26
- メディア: 新書
- クリック: 18回
- この商品を含むブログ (34件) を見る
2005年の本なので、ケータイメールが主流のころのお話しです。懐かしい。
著者はLINEとかスマホの今の時代をどう思ってるのか気になるところです。
携帯電話(スマホ)に関して、
・人間関係の管理が個人にゆだねられる
→親などの他人などが介入できない。電話張に連絡先が入っていないと人間関係が育みにくい。
また、嫌いな人とは連絡をとらなくてもよい。
・学校や所属を離れてからも、人間関係が持続できる
→これはメリットでもあるけど、デメリットでもある。リセットの機会が失われるというのは、やり直しのできない世界になってしまうのではないだろうか。IT社会は村社会よりもせまい社会。
なんてことをつらつらと考えておりました。
本の中では、ケータイ依存した人を「サル」と呼んでおります。ショッキング!
ユビキタス社会になれ親しみ、
ケータイで親とは連絡がとれるから、と深夜徘徊する若者たちの食事について
「狩猟」と表現しており、この説明に唸る。
ヒトは火や道具をつかって、食事を加工することでサルと差別化を図っているのだと。
出来合いのものを購入して食べる行為は、狩猟と同じである。ゆえのサル化。
それ以外にも、
文明を使いこなしたがゆえに文化がなくなり、ヒトのサル化を危惧した本でした。
むかし高校の先生に言われた
「便利なものを作った人は頭がいいけど、それを使うだけのやつは頭が悪くなる」
という言葉を思い出しました。
これは私の計算嫌いもあるのかもしれないけど、
ささいな計算もすぐに携帯の電卓機能に任してきたせいか、暗算が点でためです。
仕事場ではたらくおばさんとかは、せっせこっせこ暗算で計算しています。
「(電卓使えばいいのに…)」
とは思うものの、こういう小さな積み重ねをするしないは人生単位では大きいのだろうな。
電卓を使って、早く正しい計算をすること
と
脳みそをつかって暗算脳を鍛え続けること
のどちらが果たして「正しい」のかはわからないけれども
道具に依存しなければならないという状況は、その道具がなくなったときに無力になってしまうからリスクでもある。
いずれにせよ
ヒトとして生まれたからには、ヒトでありたいよな。って話。