生活を営む奴隷
生きることは、食べること。
食べることは。生きること。
そう思いながら、日々の料理を作るようになりました。
比較的苦じゃない。
予算を組んで食材を買って一週間を目安に消費する。
食べきれなかった、使えなかったものは冷凍して、いつかの貯蓄へ。
あーだ、こーだ、脳みそで組み立てながら、週末に予定どおり冷蔵庫がきれいになるとそれなりの爽快感ではある。
料理は、無から有を生み出す。ほぼ作品作りだ。
そして評価者がいるゆえ、それなりに食べての指向を反映しないとつまらない。
一人暮らしだったらどれだけ楽か。と思うがそれが張り合いにもなってはいるので五分五分。
365日作品作り。一週間を通しての作品作り。
わたしの作品は「週末の綺麗な冷蔵庫。それに至るまでの過程。」と思っている。
苦ではない。それなりに楽しみを見出している。
日々のご飯を考えることで無駄なことを考えることが少なくなって生きるのは楽になった気がする。
食べることは、生きること。
その時間と引き換えに、24時間のなかの何時間を失ってしまった気がする。
何をしていたっけ。何をしたかったけ。
こうやって、生活を紡ぐことで自己が失われていくのかな。
昔、フロイトたちが哲学をしていたころ。
彼らが哲学に勤しみ、民のことを考え、政治を生み出し、社会のことを思う時間があったのは、奴隷がいたからだ。
奴隷たちが、哲学者たち上流階級の生活を支えていたからこそ、哲学や社会や大きな視点でものごとを考える余裕があったのだ。
わたしは今、日々の生活のことで精いっぱいだ。
毎日は進む。あっという間に、迷うことなく進んでいく。
こんなにも歯車がきしまずに進むのか。
生活の一転しか見ずに歯車を漕いでいるから、前に進んでいるのか後ろに進んでいるのかはたまたそこにとどまって穴を掘っているのかは分からない。
今、自分がどこにいるのかもどこにいきたいのかもわからないけど、与えられたペダルをこぐ。そうしないと進まない。
生活を営む奴隷のようだ。
終わらない。終わらない毎日。
このペダルを漕がなくても、誰かに咎められるわけではないんだけど。
なんとなく、一度握ったペダルが離せないんだ。性格だね。
苦ではない、それなりに楽しみを見出している。