【川崎殺傷事件】人が人を裁く怖さと、隣人を想像する優しさの必要。
連日、川崎殺傷事件のニュースが流れています。
LINEニュースの速報でこの事件を目にしたとき、すごく心が痛みました。
被害に合われた方、ご家族、周りの人たち、地域のひとたちの悲しみ・憤りは計り知れません。
このニュースは連日報道し、当事者でない人たちも心を痛め
連日、被害現場にはジュースやお菓子が供えられているともニュースでみました。
どこを、どうとらえても、許されないし、悲しい事件です。
犯人も一緒に死亡したことで、動機や事件に至る過程を語る人が誰もいなくなってしまったことは、当事者の皆様にとってもやりきれないところだと考えます。
そして、ネットなどを通して、過激な言葉も流れています。
当事者たちが怒りや憤り、「一人でしぬべきだ」と思い、悔やむことは凄くあたり前な気持ちの流れだと思う。
ただ、当事者ではない赤の他人が怒りの中で、関りのない他人を「死んであたりまえ」と判断し、発信するのが許される社会だということが、とても悲しくもなった。
この事件は、事件の内容ももちろん心痛むけど、その事件を受けた社会の反応にも心が痛む。
この事件の犯人は、全くもって同情の余地もないし、許されない。
ただ、社会の前提として「死んでいていい人なんていない。」「人が死ぬことを望むべきではない。」ってなかったっけ。
その前提がなくなってしまった社会は、人が人を裁く恐ろしい社会だと思う。
また、犯人は死亡し、動機や犯行に至る経緯を語る人がいない中、
メディアではいろんな推測・憶測が流れています。
犯人像のなかに「ひきこもりがち」であった。との報道がありました。
この報道のなかで、社会の中で孤立している人たちに対する風当たりが強くなることが恐ろしい。
ひきこもり当事者・家族からなる団体が声明文を出しています。
「子供たちをどう守るのか」など事件をうけて活発に議論されていることもあるなかで、
社会のなかで孤立し・社会と接点を持たない人がこの日本・地域に共に住んでいることを思い出して、その人たちと共に社会で暮らす方法を議論も必要だと思う。
決して犯人が許されるわけでもないし、同情の余地は全くない。
犯人の部屋の前に置かれた叔父叔母からの手紙に返した返事は「自分のことは、自分でちゃんとやっている。食事や洗濯を自分でやっているのに、引きこもりとはなんだ」だったという。
引きこもりがちで社会から取り残されていることは、本人は痛いほどに自覚があっただろうし気づいていたはず。その深く長い孤立の中での、社会との唯一の接点だった同居人からの決定的な手紙。
社会から自分の存在が消えぬように振り絞った、自分で自分の存在を肯定するための悲痛な発言とも聞こえる。
(同情の余地はない、全く。誰も死ぬことを祈ってはいけないのと同時に、誰も殺してはいけない。)
こんな事件は再び起こってほしくない。だからこそ、もっと想像力を働かせることが大事だと思う。
ひきこもりがちの家族がいる家庭は、なかなか外部に状況を教えたがらない。
不登校の生徒を見舞う先生・同級生はいても、学校という枠組みがない中でわざわざ会いに行くひとはいないだろうし、社会で過ごす限り会うこともない。(社会に出てこないんだから。)
ひきこもりがちの家族がいる家庭の状況は、事件になってはじめてニュースを通じて知る機会が多い。
だから、社会はひどく怒り・そして忘れる。
社会や地域に、社会から孤立して生活している人がいることにに対して、もう少し想像力を働かせば、悲しい事件はもしかして防げるのかもしれない。
社会や人が、もう少し社会から孤立している人を気にかけていたら、悲しい事件はもしかして防げるのかもしれない。
私は、この事件の当事者ではないから「死んでいい人なんていない。」とはっきり言う。
人に優しくされないと、人は優しくできない。